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少し前ですが「いまを生きる」という映画がありました。この映画に一人の父親が出て来ます。名門校に通う息子に期待をかけ、立派な医者にするためにきびしく勉強をさせていました。ところが息子は本当は演劇の道に進みたいと思っていて、父に内緒で演劇に出演します。それを知った父は激怒し、すぐ演劇をやめるように命じます。「おまえのために言っているんだ!」と声を荒げる父親に対して口答えできず、遂にその夜、息子は自らの命を断ってしまうのです。 相手のためを思って言っているつもりが、実は自分自身の欲求や満足のために言っていた……ということが私たちにもよくあります。 今日の日課のエゼキエル書とマタイ福音書では、罪を犯した人に対して警告、あるいは忠告をしなさい、と書かれており、一方ローマ書では《自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい》と書かれています。これは言い換えれば、誰かに忠告をする場合、それが純粋に相手のことだけを考えてしているのか、それとも実は自分のためなのか、よく吟味しなさい、ということではないでしょうか。復讐とは相手ではなく自分のためにするものです。それと同じように、相手のため、と言いながら実は自分の満足のために言おうとしているなら、それは「復讐」と同じことなので、その言葉は胸にひめておいて、結果は神にまかせない、ということです。 しかし私たちの現実は、言うべきでない復讐の言葉を相手に浴びせたり、逆に言うべきである忠告の言葉を胸にひめてしまったりしています。それが私たち罪人の情けない姿です。 神はそんな私たちをあわれみ、御子イエス様を世に送って私たちの罪を背負わせ、十字架につけてくださいました。エゼキエル書にある《血の責任をわたしはお前の手に求める》という言葉を、神は私たちにではなくイエス様に突き付けたのです。 私たちはあいかわらず言葉の罪を犯す者ですが、イエス様の十字架を見上げることによって罪がゆるされ、さらにイエス様を中心として相手との間に和解が生まれるのです。《2人または3人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである》とある通りです。 |
●祈り