|
《わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ》という言葉、《平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる》と祝福された方の言葉とは思えません。 そのように感じるのは、私たちが《平和》という語から、物静かに心安らかに過ごせる状態を思い浮かべるからです。 多くの人びとが《平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる》というキリストの祝福に感銘を受けるのは、心安らかな日々を送りたいという願いが誰の心にもあるからです。 しかし嵐の前の静けさという語が示すように、何事も起こらないように感じても、次の瞬間、私たちの周囲に何が起こるか、誰も予測できません。 その嵐、どこから私たちに襲い来るのでしょうか。今日の日課で、キリストは、ご自分を信じる者には、その信仰の故に、その嵐がどこか遠いところから襲来するのではなく、実に身近なところから襲い掛かり、その人の心を、そしてその人のもっとも身近な人びととの間を千々に引き裂くと言われます。 なぜ、キリストを信じる者に、平和ではなく、嵐が襲来するのでしょうか。 それは、人はキリストを信じ、従うとき、神に創造された命を生きる人へと生まれ変わり、真理を求めて生きるので、安易に周囲と妥協したり、体制に付和雷同しなくなる、いやできなくなるからです。 手当たり次第、むやみに周囲に波風を引き起こすのが信仰者の道ではありませんが、同時に、安易に周囲に合わせたり、時には自分の口を堅く押さえても、巧みに生き抜くのも信仰者の道ではありません。「和をもって尊しとなす」。すばらしい言葉ですが、真理・真実を曲げてまで『和』を追求するのは真理に生きる者の道ではありません。
|
●祈り