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「パワーが足りないから、充電する」とか、よく言います。 どんな立派なクルマでも、バッテリーがあがってしまうと、エンジンがかからず、走り出すこともできません。 「えんやこら」と押してみても、立派なクルマほど重たいし、バッテリーやガソリンなど動かす力がなければ、これは無用の長物となります。 イエスさまの直弟子たちも、はじめは、力不足でした。 イエスさまが、十字架にかかられることになると、恐れをなして逃げ出す始末でした。 そんな後ろめたさもあってか、逃げ隠れして、不安に包まれながら潜んでいました。 しかし、復活のイエスさまにまみえて、弟子たちは一変します。 イエスさまから、直接《平和があるように》と慰めに満ちた言葉をいただいた弟子たちは、勇気百倍という気持ちだったでしょう。 とはいうものの、弟子たちは、まだ、信仰的にも、精神的にも、完全ではありませんでした。 イエスさまは、《心に疑いを起こすのか》と言われ、《まさしくわたしだ。 触ってよく見なさい》と、手と足をお見せになりました。 それでも弟子たちは、喜びながらもまだ信じられず、不思議がっていたという有様でした。 弟子たちには、そのときはまだ、真実のものが見えていませんでした。 ほんとうに聖書を悟るために、さらに、神さまの力が必要でした。 これは、父なる神さまが、約束されたものでした。 その高いところからの力が、弟子たちを覆う日が近くなっていました。 その力が聖霊です。 それが《臨む》と表現されているのは、聖霊が人格的な御方だからです。 そして、聖霊が私たちに降って来られる目的は、ただひとつです。 それは、イエスさまが言われたとおり、私たちが、《これらのことの証人となる》ことです。 その目的のために費やされるパワーは、いくらでも補給していただけるのです。
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●祈り