復活後第二主日


常識、知識の殻を破る

 人は何かにつけて疑り深いものです。 私が初めてCDプレイヤーを買ったときに、それを見た祖母は「鉄の円盤を機械に入れただけで音が出るはずがない。 おまえは店の人に騙されたんだ。 その機械を返してきなさい」と真剣に注意をしてくれました。 また、先日弟がFAXを買ったときにも「電話から字が出てくるはずがない」と実際にFAXでやり取りするまで、FAXの機能を信じなかったようです。 自分の知識や常識にとらわれて、自分の考えを超えたものを信じることが出来ないのは私の祖母だけに限ったことではありません。

 キリストの弟子であったトマスも疑り深い人間の一人でした。 同じキリストの弟子であった仲間たちが復活の主を見たと証言しても、彼は《あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない》 と主が復活されたことを信じようとはしなかったのです。

 私たちも人間の考える知識常識の枠組みの中で生きるものです。 その枠組みの中で生きていますとどうしてもその枠組みを超えたものを疑い、信じられないことが多くあります。 まして死人が復活するなどということはとても愚かで、信じるには価しないというのが人間の考えることです。

 しかし、主イエス・キリストが生前語られた復活のメッセージに耳を貸さずに「死人が復活するなどありえない」と、真に受けなかった弟子たちが主の復活を目撃して、実際に信じる者となり、あの疑い深いトマスでさえ、復活の主と出会い、主の復活を信じる者となったのです。 これだけ主の復活を証言するものがいる中で「主の復活を信じないでいられようか」と語りかけてくるのが今日の聖書のメッセージです。

 私たちは今から2千年前に生きて、主の復活を見たものではありません。 しかし、聖書のみことばを通して私たちも弟子たちと同じように復活の主の語りかけを聞き、聖書のみ言葉を通して復活の主を体験したものなのです。 私たちも人間の常識、知識といった覆いを取り去って、復活の主の出来事を通して、永遠の命に与ってまいりましょう。


祈り