|
イースターの日の夕方。 弟子たちはユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけていた、とあります。 彼らは何を恐れていたのでしょうか。 言うまでもなく、イエス様が捕えられ十字架上で殺された出来事に触れ、今度は自分たちもその弟子であるという理由で、捕えられ、殺されるかもしれない、という恐れでありました。 しかし、そこにはもうひとつの恐れがあったと思われます。 それは、ほんの数日前、彼らが主イエス様を裏切り、見捨てていってしまったという恐れです。 それは恐れと言うより、自分自身への絶望、いい知れない不安、悲しみ、自己嫌悪など、ありとあらゆる感情の入り交じった心境であったと言えましょう。 戸に鍵がかけられてあった、というのは、家の状態だけではなくて、弟子たち自身の心の状態そのものをも表していた、と言い換えることができそうです。 そこへ、主が来てくださった。 たとえ鍵がかけられていようとも、いや、閉ざされているような弟子たちだからこそ、主は来てくださいました。 これがイースターです。 恐れおののき、心閉ざせるひとりひとりのもとへ、「あなたがたに平和があるように」という祝福が届けられること、これこそがイースターの喜びなのです。 イエス様は彼らに手と脇腹をお見せになりました。 その手と脇腹にある、十字架上で打たれた釘跡を見ながら、弟子たちはたしかに主がご復活なさったことを確信しました。 その傷跡をたずさえた主が祝福してくださったからこそ、彼らは喜びにあふれたのでした。 私たちも今、自分を振り返ってみましょう。 心が閉ざされていないでしょうか。 かたく鍵を閉めて、閉じこもってはいないでしょうか。 もしも、そのような自分がそこにいるならば、今日、ごいっしょに復活の主に祈りたいものです。 主よ、来てください。 この閉ざせるわたしのもとへ来てください。 あなたからの平和とみ赦しの声を聞かせてください、と。 そのとき、主はあなたのもとへ必ず来てくださいます。 そして、あなたにいのちの息を吹きかけ、新しい明日へと送り出してくださいます。 鍵をあけて、歩み出そうではありませんか。
|
●祈り