|
マルコ伝はおもしろい構造を持っています。喜びのおとずれが始まった、ということを伝えようとするのですが、この《神の子イエス・キリスト》という言葉はイエスさまが凄惨な十字架の死を遂げられた瞬間に、「本当にこの人は神の子であった」と異邦人である百卒長が語った言葉以外に一度も出てこないのです。しかも本文の最後には「誰もイエスさまの復活を信じなかった」という記事で唐突に終わるのです。喜びのおとずれと言いながら、人々の不信仰の姿で終わり、イエスさまの敗北、滅びのしるしとしての十字架の時にのみ「神の子イエス・キリスト」という言葉が出てくるのです。つまり不信仰のまま終わっているのです。 ここで私たち信仰者は2つの現実、あるいは歴史を生きていることが明らかになるのです。《第一の世界》は私たちが目で見ている世界です。そこは不信と悲惨と痛みが支配しています。あのクリスマスの時にヘロデが命じたという幼児虐殺の痛み、泣き叫ぶ声が今も耳に残るような、人々は競争し人生を勝った負けたでしか判断できなくなっている世界です。 《第二の世界》がこの出来事、新しい創世記の出来事なのです。マルコはイエス・キリストが十字架において死なれた、その瞬間にイエスさまが神の子として救いの業を完成し、新しい時代を開いたのだ。神さまの救いの時が決定的な時なのだと私たちに告げるのです。罪と呪いの世界のためにイエスさまが十字架に死なれた、まさにその時こそ喜びの時、新しい創世記が始まったというのです。 クリスマスを待ち望むということは、まさにこの神さまの救いの歴史を、ルター流にいうならば《神さまの救いの介入》を信じるということなのです。マルコが最も悲惨なイエスさまの死、人間の不信仰の姿で物語を終わらせたのは正しいのです。私たちの目もその人間の悲惨、翻って自分自身もまたそこに右往左往する一人である。しかし、それでもなお、このクリスマスの出来事、神の子イエス・キリストは私たちを救うために十字架に死んでくださったのだということを信じる大胆な信仰こそが、喜びのおとずれ、罪の赦しを得るということなのです。 |
●祈り