待降節第1主日


十字架の主を迎えよう

 マルコはイエスさまがいかに強い決意をもってエルサレムに向かわれたかということを強調します。《先頭に立って進んでいかれたので、従う者が恐れた》と書いてあるほどです。今イエスさまの目の前には十字架の道が明らかにされているのです。そこに目を注いで歩まれるのです。私たちはこのアドベントに、そのようなイエスさまを迎えようとしているのです。

 さて、イエスさまの公の生涯における第一声は「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というものでした。今、十字架の道を歩むために《王》として入城されるイエスさまは、まさにこの《神の国》の支配を実現させるために来られたのです。世界の支配者が交代するのです。従ってヘロデ王が真っ先に敏感な反応を示したのは当然のことです。

 アドベントに私たちがイエスさまを迎える準備をするということは、何よりも先ず、《私たちの王》を迎えるということです。私たちもまたヘロデ王と共に覚悟しなくてはならないのです。ヘロデ王はイエスさまを殺す決心をしました。住民は不安の中で右往左往していたのです。私たちはこの方を私たちの主とする決心ができているでしょうか。

 ここでその決心以上に注目すべきことは、《イエスさま》は顔をしっかりとエルサレムに向け、私たち罪人すべてを救うために十字架に向かって歩み始められたという出来事です。たとえヘロデ王がどんなに立腹しようとも、住民がどんなにどちらつかずで、いい加減な態度をとろうとも、イエスさまはすでに神さまの救いのご計画の道を一歩一歩進んでおられるのです。

 しかし私たちはヘロデ王のようではないでしょうか。私たちは今、自分の心を支配しているもの、自分たちがしがみついているものを手放すことができません。私たちの生活を快適にしてくれるものだけを追うような生活から離れることができません。けれどもこのイエスさまの決意の前では、ヘロデのように命がけで抵抗するか、あるいは悔い改めるか、取るべき道は2つに1つなのです。王権の回復というのは「何よりも神のことを第一の事柄とせよ」というプライオリティーを生活の中にしっかりとつけるということなのです。


祈り