聖霊降臨後第21主日


何が不公平なのか

 私は牧師になる前、ある会社の営業マンをしていました。会社の業績をあげるため、また自分の給料を確保するため、朝早くから夜遅くまで、かばんに書類を詰め込んで、契約を取れそうな会社を訪ねてまわっていました。ところがある年、実家が酒屋を営んでいる新人社員が入社し、営業の仕事に配属されてきました。彼は実家が酒屋であるという利点を生かして、コネのある酒造業界やその関連企業と次々に契約を交わし、入社半年にして私よりはるかに営業成績が上回りました。私は8月の暑いときに朝から夕方まで汗だくになりながら契約できそうな会社を訪問したのですがまったく契約が取れなかったときがあります。ところがその新入社員は喫茶店でクーラーに当たりながら電話で契約を1日で7件とったと聞き、働くのがばかばかしくなったことがあります。働くことに疲れるどころかバケツで水を汲むような自分に生き方に嫌気がさしたことがあります。

 本日の聖書日課にも暑さを丸一日中辛抱して働いた人と夕方の涼しい時間帯に1時間だけ働いた人の賃金が同じ1デナリであったことに不平不満をつぶやく人たちが記されています。

 私たちも人生を歩んでいますと「同じ人間に生まれながら何故貧乏くじばかり引かされるんだ」と思わされることがあります。試練にあるとき、他の人の豊かな生活。幸せに満ちた人生を見せつけられると居たたまれなくなることがあります。しかし、私たちの人生が人の目から見ていかに不幸であっても、また不公平と不条理に満ちた人生であっても、神さまと私たちの関係においては不公平はないことを本日の聖書日課は語っています。私たちはどのような不遇な人生、悲しみに満ちた人生においてもキリストの救いに預かり、喜びと平安に満ちた人生を送ることが可能なのです。「私たちの人生がどのような過酷な状況におかれようとも、キリストの救いの約束は決して破られることなく、私たちを喜びと平安に導かれる」このキリストの言葉を信じ、また私たちの罪が赦され、永遠の命をいただくことが人生で最高の喜びであることを覚えつつ、この救いの恵に感謝しながら人生を歩んでまいろうではありませんか。


祈り