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人は誰かに何かを自慢したいという誘惑に刈られます。特に信仰生活で苦労したことや、教会で何か目に見える成果をあげたとき、そのことを誰かに聞いて欲しいという思いを強く持つものです。信仰生活における出来事がキリストのみ名をあがめるためであり、信仰者としての徳を高める証しとなれば良いのですが、信仰生活における目に見える成果が、えてして信仰の自慢になったり、いかに自分がすばらしい信仰者であるかをアピールする材料になることがあります。十一献金自慢、聖日厳守自慢。教勢拡大自慢。大会堂建立自慢などを聞くたびに、悲しみで満ち溢れるものです。しかし、私も心ならずともそのような自慢をし、兄弟姉妹を失望させ、キリストを悲しませた一人です。 「神さまのみ前で多くの汚れた罪を犯し、何の価値もなかった私をキリストの十字架の死ゆえに最も価値あるものとしてくださった」この救いの出来事こそが唯一の信仰の誇りとすることができるよう、十字架の言葉にしっかりと立って歩みたいと願わされます。 |
●祈り